成人発達障害者がうっかり引っ越して 一人暮らしを始めた結果

いかにも悲惨な様子しか想像できないタイトル。

必然性という言葉が救いにならない人


お久しぶりです。そういえば
このブログのタイトルは「成人発達障害者がうっかり引っ越して一人暮らしを始めた結果」ですが、
結果は「統合失調症を発症して実家に帰った」ですので一人暮らし自体は1年ほど前に終わっています。
ご愁傷様でした。


ところで、昨日オカンが漫画を紹介するTV番組を見ていて、そこで出てきた、
「物事は必然性でできている」みたいな台詞を見たあとに眠ったら、
『30年以上は前になるのだけど、和裁の専門学校に通って、赤ん坊のお包みを縫って、
それを捨てずに10年ぐらいが経って、結婚して子供を産んだときに、
親戚に見せる儀式のためのお包みを買うのを忘れていた!ってなって、
10年前に自分が専門学校で縫ったお包みを着せてみたらピッタリだった』
という話を思い出したということです。ここで生まれた子供というのは私のことです。

まぁこういう綺麗な話でだったら「物事は必然性」って言ってもいいのかもしれないけれど、
今自分が統失になって今の状況になっていることも「必然」って言われるとすると
なんかモヤっとしてしまいますなぁ。
確かに何か未来の出来事のためにある現実なのかもしれないけれど、
それが明るい未来に繋がっているフラグだとは到底思えないし、
必然だと思うよりは「回避できる道はあったが、自分が間違えたのでこうなった」って
思っておくほうがまだ救いがあるような気がするんですよね。
要は過去に戻って爆弾を踏まない選択をすれば、統失にならない未来もあったかもしれないという話。

オカンだって、変形性股関節症になって、歩けなくなって、床に落ちたものが拾えなくなって、
車を運転できなくなって、家の世話のほとんどを親戚の世話になって、
それを未来のための「必然」って果たして思えるのか?と思う。

お婆さんの認知症にしかり、爺さんの腎不全にしかり。
先々、良いことに繋がっていくんであれば「必然」は美しい言葉に聞こえるけれども、
お先に闇しか見えない出来事を介して「必然」と言われると怒りも沸くよなと思う。

持っていた貯金は、最低限の引き落としに使われる分だけを残してあとは実家に明け渡したので、
金銭的な面で言っても私が二度と一人暮らしに戻れることはおそらくありません。
お爺さんとお婆さんが亡くなったら介護は無くなる代わりに年金も無くなるので、
やはり生活に困る未来しかありません。
ほんの数年前みたいに、カラオケに行ったり旅行に行ったり食事に行ったりというのを
当たり前にしていたことが、たとえコロナが収束してもこの先完全に出来なくなります。
統失の薬の効果により、妄想(幻覚)も見れなくなっているので
何か生産的な作品を作るということも難しくなっています。
ただその日暮らしのご飯を食べて生きるだけの生活に向かっていくことを、「必然」と言ってしまうことは、
私からすれば絶望と一緒です。何か違う選択肢の残る言葉が欲しい。それが今の気持ち。


ただ、振り返ってみると、全部が悪かったのかといえばそうでもない面も確かにあります。
たとえば、ちょうど統失になって失職して実家に戻ることを決めた日取りが、
ちょうど去年の台風19号を躱したということ。
かつて住んでいたアパートは台風19号が直撃する立地にありましたから、
今どうなっているのかはわかりません。もしかしたら
停電や断水したり浸水したり倒壊したりと、補修が必要な状況になっていたかもしれません。
でもその前に岩手県に飛んできたことによって台風19号はたまたま避けました。
そしてその後に都心部でコロナが流行り出したけれど、岩手県に居たので
感染のピークに至るまでは結構な猶予があったということもあります。
それが要するに先に言われていた「必然」というやつなのかもしれませんが。
しかし何にせよ代償が大きすぎることに変わりはありませんが…。


私はただ統失にならずに健康なままで生きていく未来が欲しかった…ただそれだけ。
眠れさえすれば投薬も必要なかったので、適度に妄想して遊ぶぐらいはできたような
そういう生活が欲しかっただけ…。


オカンにこのブログの話をすると相変わらず
「人間は4次元の何かによる駒として動かされていて行先はもう決まってるのかもしれない」
みたいなことを言って楽しそうにしています…それ被災した人の前とかで言える???
でも圧倒的に創作意欲はオカンのほうがあるのである意味羨ましいです。
ドーパミンを抑える薬飲んで1年以上が経ちましたが、一番失ったのは創作意欲なので…
本当にこれから先どうなっていくんだろうなぁ。


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