成人発達障害者がうっかり引っ越して 一人暮らしを始めた結果

いかにも悲惨な様子しか想像できないタイトル。

概念的サマー、概念的オカン

最近よくオカンのことを思い出している。
現在生活しているオカンではなくて、過去のオカンばっか思い出している。
2月とか3月頃はしょっちゅう、仕事帰りに駅のロータリーを通るたびに
「迎えに来ている幻想」を頭の中で再生していた。後部座席にどっかと座り
開口一番「はぁーしんどかったわw」って愚痴っている、かつての世界線の自分を見ていた。


電車に乗っていて、住宅街の合間にあるノウゼンカズラが視界に入ったときにも、
この写真を撮った日みたいなことを思い出していた。


オカンが運転する車に乗っていて、傍らにはカメラを持っていて、
風景を見ていたときになんかピンと来てしまったら、
路肩のないような危険な道や、道路交通法違反になるような場所でない限りは
たいてい「停めて」と言っては、車から降り、気になるところをパシャパシャ撮っていた。
停めるときには悪い顔をされることはほぼなく、むしろ彼女の視界には見えないオモチャが
どこにあるのか、どうやって見つけるのかをよく質問してきていた。
そのたびに「呼ばれるから」という妖精さんな返答をしていた。

あのやりとりは私は普通のことだと思っていたけれど、
結構仲良くないと出来ないことだったんだろうなぁ、と今更しみじみ思ったりする。

だって、何の前触れもなく「あっ停めてくれ」とか言い出して運転中断して、
そこで数分間ぷらぷらされるとか、写真に全く興味のない人だったら怒るだろうね。
一応おいらは「あっ(電波)」って言い出す時は脳内で構図が決定していて、
その構図をレンズに再現するだけなので、撮影自体は1分~3分ぐらいで終わるんだけども。
(逆に「あっ」て思ってないときに無理やり撮ろうとすれば5分~10分を見込む)

おいらが見ている風景とか、撮ったあとの風景とかを、ある程度面白いもののように
適当に理解してくれてた関係性は、恵まれていたことだったんだろうなぁ、と思う。
べつに相手はまだ生きているんだから帰れば居るんだけど、
あの日々を再現することがもう困難な事情になってることを
たびたびセンチメンタルに思う。

最近の電車でノウゼンカズラを見かけたときにも、↑を思い出す意味で「あっ」て思ったけど、
もちろん融通のきく途中停車などできることもなく、そのまま通り過ぎていった。

かつて撮影が無理な場所を車で通りかかるたび、「徒歩やチャリで生活できればよかった」って
よく言ってたけど、まぁきっとこの分だと どっこいどっこいなんでしょうなぁ。

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