自責による「免疫機構」は大人になったら「アレルギー」になる話
今回は真面目にADHD的な話を書きます。きちんとしたオチはありませんが。
これは前の職場のとき、、というかそれ以前からずっとあったことなんだけど、
人の善意や厚意をそのまま率直には受け取れず、自分の脳内で捻じ曲げてしまう
というのが結構深刻なんだなというのを肌で感じています。
たとえば今の店長さんは、どちらかといえば
抱えてる従業員ではなく、お客さんのほうを責めるタイプの人だとわかってきた。
(私に対してだけでなく、別のバイトさんの失敗のときや、ご自身の失敗のときも
そういう対応をするため。)
前の職場の人たちも、どちらかといえばそういう人が多かった気がする。
従業員は、ほぼ毎日、あるいは少なくとも2~3日に一度ぐらいの頻度で会うことになるけど、
お客さんのほとんどは一見さん。だから、単にイライラを流すことが目的であれば
その一見さんが立ち去った後に「あの人の言い方わかりにくかったよねw」とか言ったほうが
誰も傷つかずに円満に終わることをよくわかってそうしているのかもしれない。
たとえ、裏で何か思われていたとしても、彼らが表に出さないという選択をしているのなら、
一応その場ではそれが全て。でも人の3倍ぐらいミスや失敗をやらかす私は、
「あっ、今ので幻滅された」とか「あっ、本当は怒ってたり面倒くさいとか思ってるはずだ」
とかいう常にマイナスの読心術を発動しながら生活しています。
正直これがきついのだけど、自力ではなかなか止められない。
どういう仕組みかというと、
幼稚園ぐらいの幼少~バイトを転々する22歳ぐらいになるまで、
他者からは怒られたりバカにされたりということがほぼ当然の発生率だったため、
責められる内容を先に推測し、「こう思われてるんだ」と脳内で先にワンクッション置くことで、
実際にその推測と同じ内容のことを他者から言われても、大きくは傷つかない
という正しい免疫機能としての効果がありました。
(ただし自己イメージをそこで確約しているという悪い側面も大きかったかも。)
ただ、23歳を過ぎたあたりから、なぜか出会う人の質が変わり、
ざっくりとして細かいことを気にしないような人に会うことが多くなった。
怒るよりも笑う頻度が多いような人に会うことが増えた。
(悲しいことに自分が変わったのではないことは断言できます。)
そこで実際に責めてこない相手に対してまで、過剰に「自責免疫」を乱用しようとすると、
それは喩えるなら「アレルギー症状」とか「癌細胞」のようなもので、
本体を無駄に傷つけるものに過ぎなくなってるということです。
なんというかもうきっと、大体の場面では「不要」なんだよね、と頭ではわかっている。
なので、今目指すべきは、このアレルギー反応を止めることが一番かもしれない。
不注意とかワーキングメモリの不足に対しても仕事では随分不便はしているけど、
とりあえずそれについて診断名を追加したり薬を飲むというつもりはまだない。
(朝、寝る前、仕事に入る前の3回ぐらい、ワーキングメモリを鍛えるアプリをやっている。)
もしも手を加えるなら、あくまで自分の「受け止め方」みたいなのを変えたい。
…と思って1回、そういえばカウンセリング行ったことあったな。。。
結果は「幼少期から積み上げられた生き方のようなので、一朝一夕で変えるのは難しい」
という、ありがたい一般論のようなお言葉をいただいてガッカリしたのだった…
でもあれは、認知行動療法が広まってない田舎の地元で受けたものです。
時間あるときに、もう1回チャレンジしてみたいかもしれない。。。。
あと余談で、最初からアレルギーが発動しない相手も一応いて
「親」(親戚には発動するが)、「今の彼」です。
共通点は、「価値観に対して寛容」「裏が見つからないぐらい正直っぽい」ところ。
つまりはそういう人を多く探すという手もあるのかもしれない。
でもこっちはガチャでレアを引き当てるのに等しいことだと思われるので本題にはならない。
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